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Special

 
 
 
――Blazing Soul Prequel――
「-Day break-」

「――――」

短剣を突きつけ、アーサーを睨みつける。見れば頬は赤く腫れあがっていたが、本人はどういうわけかへらへらとしながら困ったようにあたしを見上げている。気にくわない、なんのつもりだ。

「いやあ、すごいね。まさかこんなに痛いとは思わなかったよ」
「うるさい。避けれただろう、なぜ受けた」
「なぜって……うーん。あのままじゃ話を聞いてくれそうもなかったからね。とりあえず殴られておけばスッキリするのかなーって思って」
「……舐めやがって」
「いやいやそんなつもりはないよアイン」
「……お前……あたしのこと……」
「へ? あー覚えてるよ! 決まってるじゃないか、アイン・カルティエール。忘れるはずがないさ!」

 

驚いた。まさかこいつまであたしのことを覚えているとは思わなかった。記憶に残るほどの交流はなかったはずだが、存外に物覚えがいいらしい。

「なんせ、一目惚れだったからね! いやー君と会いたかったんだけど、あそこを出てからはめっきり音沙汰が無くなっちゃったから心配だったんだ」
「……なんだと?」

……一目惚れ? ……どういう意味だ?

「え。あ、やーその。しまった。勢いで言ってしまった。いやほら、一目惚れっていうか、一目見て君を素敵だと思ったわけで、だから態々君にあの時声をかけれたわけで。うん、だからまた会えるなんて嬉しいなーみたいな。そういうことさ!」
「…………どういうことだよ」

なんだこいつ――いや、言葉の内容も凄まじく気にはなるが、どうしてこの状況でこれほど気楽に喋り散らかすことが出来るんだ。首筋に押し当てられた冷たい感触のことなどまるで気にも留めていない。

 

「で、会えて嬉しいんだけどもこれは一体どうしたんだい?」
「……分かるだろ、お前を殺しに来たんだよ」
「ほえー! そうか、ついに僕も命を狙われるような立場になったんだね」
「……えらく余裕だな。その気になれば、今もどうにか出来るからか」

事実、そうだろう。今はこうして完全に組み伏せてはいるが、こいつが本気を出せばまたすぐあたしは吹き飛ばされる。故に、今すぐにでもこいつの喉笛を引き裂いた方がいいのだろうが、しかし――。

「うーんどうかな。少なくとも、君とは争いたくないね」
「じゃあ、大人しく死んでくれるのか」
「えー、それもやだな」
「……」
「あ、ちょっと怒ってるね。だんだん首に刃がめり込んできたよ。あ、普通に痛い」

――なにも、変わってない。本当に何も。このようにふざけた態度はアーサー・フェルマータ生来の気質だろう。訓練生時代も本当にこんなだった。朗らかで、誰に対しても平等で、恐ろしく優れた能力を持っているのに、恐ろしく間抜けたことばかりやる男。そんなだから、あたしはこいつをよく覚えていた。

「悪いけど、あんたを殺さなきゃならないんだ」
「そっかー、うん。まあ愛する人に殺されるって中々趣があって良いよね。僕は好きだな。そういうの。よしなら、こいっ!」
「……愛する人って、さっきから何言ってんだあんた」
「え、だから一目惚れって言ったじゃないか」
「あんた、本当に素面か?」
「当たり前さ! というかごめん、白状すると僕は面食いなんだ。そして君の顔がね、とてつもなく僕の好みだったものだからどうしても忘れられなくて、ああもう。どうせ死ぬならこの際だし改めて言わせてもらうけど、アイン――僕は君が好きいたたたたたちょやるならひと思いに!お願い!」

ダメだ。何を律義に付き合ってしまっているだあたしは。こいつと話すと凄まじく調子が狂う。

「アーサー・フェルマータ。あんた、死ぬのが怖くないのかよ」
「怖いに決まってるじゃないか。そして死にたくもないよ」
「じゃあなんだよその態度。少なくともあたしには、まったくそうは見えないけどな」
「君に再会出来たから、ちょっと気持ちが盛り上がっちゃってるんだなぁ。いやはや、これでも驚いてるんだよ? 突然、本当に突然だったから」
「……」
「“誰に”言われたのか知らないけど、いやあその人には感謝の念が尽きないよ。本当に、本当に、もう一度君と会いたかったんだ。アイン」

そう言いながら、アーサーは真っ白な歯を見せ笑う。

ああ、なんてやつだ。前々から頭のネジが飛んでいると思っていたが、まさかこれほどとは、今正に命を狙われているというのに、刺客が目の前にいるというのに。なんで、なんでこいつは――そんなふうに笑えるんだ。

「なあ、状況わかってないだろ。あたしはあんたを殺しに来たんだよ? なに平然としてやがんのさ、それともあたしなんかには殺られないっていう余裕の表れ? もしかしてあんた本当に頭がおかしくなっちまってんのか」
「ん? いや、だからさ。全然平気じゃないって。さっきから心臓の鼓動がうるさいくらいどくどくいってるし、こんなに喋りたくなるのも緊張しちゃってどうにかなりそうなのを誤魔化しているだけさ。ってああ、また言うつもりのないことを言っちゃった……そうさ。そりゃ緊張もするよ。初恋の人が目の前に、しかもこんな距離にいるんだからね」

最早驚きを通り越して呆れ返る。まだそんなことを言い続けるのか。そしてなるほど、こいつは真正だ。もうどうしようもない。

大きく息を吐き、あたしはアーサーの体から降りた。急に全てが馬鹿らしくなり、何もかもがどうでもよくなった。こんなやつを殺すために、あたしは覚悟を抱いてここまでやってきたのか。まるで道化のようで、何とも自分が惨めに感じる。

「あれ、僕を殺すんじゃないのかい?」
「もうそんな気は失せたよ。これで抵抗してくるならよかったけど、圧倒的な実力差を見せつけられてからさあ殺してくれなんて言われても気勢を削がれるどころの話じゃない」
「やや、そんなことないよ。アイン、君めちゃくちゃ速いね。僕も本気を出さなきゃ全然目で追えもしなかったよ。あれから君もずっと頑張ってきたんだろう、素直に尊敬するよ」
「はいはい、どうもどうも。おかげさまで任務は失敗、あたしのお先は真っ暗だよ」

まったく馬鹿で間抜けで天然で……クソがつくほどの正直さ。何も、何もこいつは変わってない。あたしだけが腐って腐り果てて今もこうして情けない体を晒しているというのに、こいつは、アーサー・フェルマータはまるで太陽のように輝かしく、あたしにはどうしても眩しすぎた。

「お先真っ暗? どういう意味だい?」
「……言ったろ、あたしはあんたを殺すために。そういう命令を受けてやってきたんだ。けどもうあんたを殺せない。後は城の衛兵に捕まって然るべき裁きを受け入れるか、仮に何事もなくここから出られてもしくじったあたしをあの男は許さないだろうね」

そう、アーサーは衛兵を呼び出すような真似はしないだろうが、あたしが逃走を始める段階で再び兵に見つかることなく城から出られるとは限らない。出られたとしても、飼い主はきっとあたしを始末しようとする。元よりそれは、成功しようがしまいが関係なく足がつく前に行われただろう。そんなことは、そんなことはとっくの前から理解していた。

「だから、どっちにしろあたしは終わりさ」
「ふうん。なるほどなるほど」

考え込むように、アーサーは俯きながら黙りこくった。それから何かを思いついたように頷くと、再び顔を上げる。

「じゃあさ、こうしよう。君が僕を殺そうとするのをやめてくれたのなら、今度は僕が君を助けよう」
「――なに?」
「君がもう泣かなくてもいいように、僕がどうにかしてみせるよ。いや、むしろどうか僕に君を助けさせてほしい」
「な、誰も泣いてなんかいない」
「泣いてるさ。涙が出てなくても、君のそんな顔を見てると僕は耐えられないんだ」

歯の浮くようなとは正にこのことだ。これほどまでに芝居じみた言葉を吐くやつが本当に存在するとは。しかし当の本人の顔は極めて真剣であり、冗談を言っているのではないのだと嫌でも分かってしまう。

「……助けるって、具体的にどうすんのさ。まさか、あたしをずっと匿うつもり?」
「それもいいね。二人きりの密会みたいなことが出来る」
「……」
「あ、待った! 出ていこうとしないで! 本当はアレだよ、義父さんに頼る!」
「は? 義父さんって、まさか――アルトグレイス卿に?」
「うん!」

いよいよダメだ。ほんの少しだけ心が揺れ動いてしまったあたしが馬鹿だった。もうだめだ、疾く逃げよう。この町から。野垂れ死ぬまで走り続けよう、その程度の末路ならば受け入れられる。

「いやいやちょっと待ってよ。君は命じられただけだろ? しかも結局未遂に終わったわけだしさ。まあ確かに少し怒られそうだけど、本当に悪いのは君に暗殺なんかをさせようとしたやつさ!」
「……関係ないね。暗殺はこれが初めてじゃない。これまでに何人か殺してるんだよ。その行いが無かったことになるわけじゃない。あんたが、あんたの偉いパパに何を言おうが、きっとロクなことにならない」
「――大丈夫だよ。そうはならない」

などと、真実そうであるかのようにアーサーは真顔で言ってのける。

「……何処からそんな自信が湧いてくるんだよ。もういいから、あんたはあたしを此処から見逃してくれるだけで。それ以上は望まないさ、現実は現実で、童話や空想じゃないんだ。都合の良いことが、そうそう起きてくれるはずがない」
「だからさ、どうして君はそうやって目を逸らそうとするんだい。僕の提案こそが、君を救うために訪れたご都合主義そのもなんだって。いいじゃないか、たまには現実でこういうことが起きてもさ。アイン、君があの時以来どうやって過ごしてきたのか僕は知らないよ。けれどね、僕は君が悪い子じゃないってことだけは知ってる。分かるんだ。それにやっぱり単純に、僕は君が好きだからさ。どうにかして君を助けたいんだ」

だから、ね――と、憎たらしい笑顔を浮かべるアーサーを、あたしは直視することが出来なかった。ああ本当に、本当に全てがこいつの本心で、もしかすれば本当に、こいつはあたしを救ってくれるのではないかと思ってしまって。

「――――そうかよ。だったらもういいよ。好きにしてみな」

なんて、根負けしたように渋々とあたしは言い捨ててしまったのだ。

■■■

都合の良いように、積み重ねた過程も何もかもを無視して捻じ曲げられる物語。書き手の思い通りに紡がれる道理も何も存在しない陳腐で退屈なご都合主義。一般的にそれは悪だと蔑まれる傾向にあるが、果たして現実で同じようなことが起こってしまった場合はどうすればよいだろう。

結局、全てが上手くいってしまったとしか説明出来ない。あのあと、アーサーの報告を聞き入れたウーゼルは直にあたしと対面し、あたしが主に命じられてやってきたことの全てを聞き入れた。その後、彼はあたしの飼い主だった男を糾弾し、奴は極刑に処されることとなった。罪状には明らかにあたしが行った
ものも含まれており、一概にざまを見ろとも言えない心境ではあったが、後ろめたいと言えば嘘になる。清々した、というのが本音だ。

事が済むまでの間、あたしは一時的にウーゼルへ預かりの身となり、アーサーと共に時間を過ごした。その後は、あたしの弓術などにおける素質を見込んだウーゼルの口利きで、聖円卓の一人に仕えることどなったのだが――まあ、そのあたりはまた別の話だ。

今、あたしの目の前ではアーサーの騎士叙任式が執り行われている。それもただの叙任式ではない、あいつが、正式に聖円卓第一席「アルトグレイス」の名を継ぐ大切な式でもあった。

儀式は滞りなく進み、順当に捻りなく――聖剣は、アーサーを選んだ。割れんばかりの拍手喝采が、儀式の行われる聖堂に響く。

傍に控えていたウーゼルと短く言葉を交わし、アーサーはすぐにこちらへ歩み寄ってきた。常と変わらず、朗らかな笑みを浮かべながら。

「やったね、アーサー。……いや、アルトグレイス卿?」
「やだな。アーサーでいいよ。それにまだ義父さんがいるから、正式に名を継ぐのはもう少し後だよ」
「そうか――んじゃ、その時はアルトとでも呼ばせてもらおうかね。馴れ馴れしいか」
「ははっ、今更何を言ってるんだい。僕と君の仲だろ」
「近づくな近づくな。調子に乗ると酷いよ。――何にせよ、お疲れさん」
「……ああ、ありがとう。アイン」

自然と、あたしの頬もほころんでいく。まるで全てが夢のようで、今日のような日をこうして迎えることが出来るなんて思わなかった。これも全て、あの日こいつと再会出来たからだと、十分に理解している。決して忘れることはない。アーサーには、大きな恩があった。もちろん、感謝している。けれどそんなことを一々伝えるのはこっ恥ずかしくて仕方がない。

けれど、けれどね。あたしはあんたに救われたから。何があろうと、あんたに最後まで付き合ってやるよ。それが――あたしの決意さ。アルト。


                                           了

相対した粗末な鏡台。窓から差し込む月明りを帯びて輝く鏡面には、暗がりに沈む幽鬼のように虚ろな瞳を揺らめかせる餓鬼の顔が映っていた。

筋肉で引き締まってはいても、明らかに栄養の不足していることが見てわかる、骨の浮き出た痩せさらばえた矮小な体躯。艶を失って久しい髪を無造作に束ねただけの無骨さ。曝け出した四肢には生傷が絶え間なく刻まれている。

お前、その様でまだ死にたくないのかよ。

鏡に映る己に向けて、あたしは問いかける。すると何が面白いのか、嘲る様に、お道化る様に、鏡の中のアイン・カルティエールは心底胸糞の悪い顔で嗤った。

「――死んじまえよ。この糞袋」

瞬間、甲高い音を伴って鏡台は一つの前兆も見せず「ひとりでに」砕け散っていた。床に散らばり落ちた鏡の破片は変わらず月光を薄く帯び、出来損ないの宝石のように鈍い煌きを放っている。

あたしは薄汚れた天井を仰ぎ、気だるく大きく息を吐いた。側頭部が鋭く痛む。慣れない「識」の使い方をしたせいだ。本来ならば物質破壊に特化した念力の類いなどあたしが行使出来るような芸当ではない。

深い呼吸を繰り返しつつ、窓の外に目を配る。今宵の満月は既に地平線へ向けて大きく傾き始めていた。時刻は深い夜の最中。王都ヴェルスタッドは死んだように静まり返っている。動き出すには丁度いい頃合いだった。

手早く身支度を整えると、鏡台の残骸をそのままにあたしは部屋を退出した。とはいっても、この部屋を出てさえすれば既にそこは星空の下だ。

ヴェルスタッドに存在するスラムの一角。そこに、一応はあたしのために誂えられた小さなあばら屋。ここがあたしの全て。卑しくも「盾持ち」の階級にある者としては不当に過ぎる待遇だったが――それは真っ当な従騎士であるならばの話だ。アイン・カルティエールのような小娘に雨風を凌げるだけの代物が与えられるだけ恵まれていると考えてもいい。そも、あたしはあたしを騎士の端くれとすら見なしてなどいないから、別段この現状に異議を申し立てるつもりも毛頭なかった。

そう、騎士などという称号は決してこの身に相応しくない。あたしは殺し屋。血濡れた暗殺者。濡れ仕事を生業とする陰に生きる宿痾を背負った塵芥。所詮は、それだけの存在だ。

故に今日も変わらずあたしは夜に舞う。大地を蹴り、浮かび上がる肉体は羽毛のよう。王都ヴェルスタッドを抱える複合国家アルダリアにおいては類稀な「魄創術識者」として、識の基本術理にあたる二つの術理、「現奏」と「心奏」をあたしは十全に使いこなしていた。

つまり建物一つ飛び越えるほどの跳躍など造作もなく、夜風に身を委ねて何処かの屋根の上へ軽やかに着地、即座に獣の如き鋭利さを誇る疾走を開始する。夜を駆けるその姿は一陣の颶風のようで、とても人が行う活走とは見えぬ常を逸した速度であることだろう。

蒼褪めた月だけが、帳が落ちて久しい無謬の夜を行くあたしの姿を見守ってくれている。常と変わらず、昨日も今日も明日も変わらず。この静けさこそがあたしの住む世界。日の当たらぬ冷たさが、何よりも心地よい。

目指す先はここからでも嫌というほど目についた。城下を見下ろす巨大な威容を誇るは白銀の月光を照り返すアルダリア城。王国の全土を統べし権威の全てが、そこに収束している。無論、夜間は正門裏門その他の出入り場所全てを封鎖されており、城内では夥しい数の兵士が巡回に務めているはずだ。

月よ風よ、愚かな餓鬼だとあたしを笑うか。正しく東大陸でも有数の警備網を誇る絶対不可侵の領域へと、アイン・カルティエールは今正に忍び込もうとしているのだ。今の時世、見つかれば高い確率で極刑に処されるだろう。あたしの歳など関係ない。

現聖円卓第一席ウーゼル・“アルトグレイス”・フェルマータの後継者たる従騎士の若者を殺害すること。それが今宵、「飼い主」から与えられた唯一の主命であり、名誉も糞もない穢れているだけの暗殺仕事だった。

標的のことは知っている。短い間だったが、共に競い合った仲でもあった。奴の名は――アーサー・フェルマータ。月よりも太陽の似合う、朗らかで間の抜けた、どうしようもなく馬鹿みたいに笑顔の似合う奴だった。

■■■

先日の出来事だ。あたしは招集を受け、スラムの我が家から上流階級のみが暮らす区画へと人目を憚るように足を運んでいた。時刻は決まって、人気の少ない時を見計らい日が落ちた後となっている。

絢爛たる装飾は持ち得た権力を過分に誇示するかのようである。そうした虚栄に満ちた輝きを纏いつつ、あたしの飼い主である「騎士サマ」が暮らす大邸宅は存在していた。使用人などは居るだろうが、実質的な居住者は飼い主ただ一人であることを考えると些か以上に過ぎた代物なのではないかと思う。

正面から入ることはせず、いつも通りに裏口から入り込む。通路の明かりは落ちていたが、あたしの目にはこの程度の暗闇も昼のように明るく見えている。


元々夜目が効くのだろうが、それはあたしの持つ識に依る特有の恩恵がほとんどだろう。

目当ての扉の前に行き着くと、ノックを繰り返し、静かに返答を待った。

「入れ」

声もなく、あたしは扉を開けするすると室内に入り込む。飼い主の執務室はいつも甘ったるい薬草の香りが立ち込める。王都では依存作用があるとして禁止されているはずのハーブだが、あたしにそれをどうのと言う権利も何も存在しない。そもそもこの男の前では許可なく口を開くことすら禁止されているのだから、無意味に過ぎる懸念だろう。

その恰幅の良すぎるでっぷりとした体を背もたれに預ける我が飼い主は、執務机の向こう側から「葉巻」をふかしつつ、こちらを野暮ったく睨め付けていた。

あたしは執務机から少し離れたところまで近づくと、無言で跪き頭を垂れる。

「――早いものだなぁ。アインよ、貴様を拾ってからもう八年もの月日が流れようとしている」
「……」
「当時は原石を見つけたと喜んだものだが、お前は未だ芽を出せずにいる。なぁアインよ。卑しい人殺しの技だけを上達させてどうするのだ。城で鍛えられた時に何を学んだのだ」

このように、突如として意味不明な説教が始まるのはいつものことだった。あたしからすればどれだけ掘っても知るか死ねぐらいの感想しか出ないが、表情に出さず黙して聞き続けているしかない。

八年――八年。それほどの年月が経っていたのか。あたしよりこの男がそれを覚えていることに驚愕するものの、あの日から八年もの歳月が経過していることを顧みると意外にも何の思惟すら沸き起こりはしない。ああ、そうだったのか、へえ――それだけ。

八年前、アルダリアがまだ抵抗を続けていた一部の諸国に対し攻撃を仕掛けるなどして、西大陸でも大規模な戦乱が続いていた頃。あたしが元々暮らしていた町は、戦に巻き込まれたことで順当に戦火に消えた他の国々と同じように、結末を違えることなく滅び去った。多くの住民が死んだが、生き残りも居ただろう。しかしあたしは誰一人その後の行方を知る奴はいない。ただあたしはその時、ある偶然と偶然が重なり当時前線を指揮する立場にあったこの男に拾われたのだった。

それは気まぐれでもなければ、慈悲と温情による物でも当然あるわけがない。この男は、都合の良い手駒が欲しかっただけなのだ。その時のあたしは、「使える」と思われるだけの素質を幸か不幸かあたし自身の意思とは関係なくこの男に見せてしまった。だから拾われたのだ。

立場上は小姓として仕えることになり、最初の数年は王城内部に設けられた訓練施設で鍛えられ、そこを出てからはずっとあのスラムがあたしの住む場所だ。そして今日のように、飼い主から何か言い付けられる時だけこの屋敷に足を運び、帯びた任務を遂行する。それだけの日々。

一応のところ、今のあたしはこいつの従騎士という立場であるはずだったが、然して有るべき叙任式や問われるべき責務とはこれまで一度も直面したことがない。何故なのか。それはこの男がそのようにしかあたしを使っていないからとしか言いようがない。正しく飼い殺しにするつもりなのだ。真っ当な騎士としての道など、歩めるはずもなかった。それをわかっていながら――いや、恐らくこいつは何も分かっていまい。ただ憂さ晴らしのようにあたしへ意味のない見当外れな嫌味を吐いているだけなのだ。

「ウーゼル――あの忌まわしいアルトグレイスめにも、若い従者が居るらしいな。剣の腕は城内一、識の素養も成長すればウーゼルに並ぶほどの資質を秘めているらしい。素晴らしいな、このままいけば順当にその小僧が次代のアルトグレイスとなるのだろうさ。どう思う、アイン」
「……私からは、何も」
「そうだろうな。何も出るはずがないだろう、貴様の口出し出来る話ではない。貴様のような小娘ではな」
「……はい」
「だがなあ、このような話もある。儂とウーゼルは、ほとんど近しい時期に王国の騎士団に入団を果たした。当時、儂は若く活力に漲っていた。この己こそが聖円卓の第一席、アルトグレイスの名を冠するのだと信じて疑わなかったのだよ。それがどうだ、儂よりも劣っていたはずのあいつが、よりによって貧困街育ちのウーゼル・フェルマータが、神器に選ばれたという理由だけで、アルトグレイスの座に就きおった――この儂を差し置いてッ」

執務机を占領していたグラスが一斉に吹き飛び、四方八方に飛び散り砕け散った。揺らめく魂のうねりが、重圧となってあたしの肉体を軋ませた。

「おかしいだろう、ふざけておる。あのような下賤な身の上の男が誉れ高き王国の剣として相応しいはずがない。第一、神器に選ばれてしまえば如何なる者でも円卓の座へ至ることが出来る仕組みこそが間違っておるのだ。そんなもの、不正が罷り通らないと誰が断言出来るッ」

……この男は、今はこの様でも昔は戦においてかなりの辣腕を振るった名将として知らてれいる。現に上げた武功も数多く、アルダリアにおいて最重要視される魄創術識の素養も申し分がない。そう、確かにこの男は優れた存在だったのかもしれない。だが、あたしからすればそれらは遥か過去の名誉でしかなく、今となっては褪せただけの残骸としか見えない。故のこの有様だ。昔日の残滓へ縋り付いたまま、築いた地位で堕落した日々を送っているだけの男だ。

神器に選ばれなかったということは、つまり必然的に相応しくなかったというだけの話であり、それ以上でも以下でもない。いくらこいつが騒ぎ立てようと、それのみで話は完結する。

「この儂こそが、選定式の機会にさえ恵まれれば、儂が彼の聖剣に選ばれていたのだ。あのような男ではなく、儂こそが……」

……しかし、神器の選定式はそもそもの前提条件として聖騎士の階位にある者でしか受けられない決まりとなっている。聞いた話では、現アルトグレイスたるウーゼル・フェルマータは順当に聖騎士へと昇り詰め、然るべくして選定式に臨んだのだという。だが、我が飼い主たるこの男は結局聖騎士にまでは至ることが出来なかった。よって、既にそこへ厳然たる差は出ているのだとしか思えないのだが、私恨で凝り固まったこの男の頭では今更何をどう考えようと無駄であることだろう。

「……のう、アインよ。お前に次の命令だ。これまでは間諜めいた仕事や、つまらん小物の始末ばかりを申し付けていたが、今回は違う。喜べよ、限りなく大きな仕事だ。見事果たせれば、お前の待遇を少しは良く見直してやろう」

ぞわりと沸き上がる予感に、あたしは思わず顔を上げて飼い主の瞳を見た。奴もまた底冷えのするような笑みを浮かべてこちらを見つめている。しかし、その眼からは明らかに正気と呼べる何もかもが欠落していた。

「案ずるな。奴を狙えなどとは言わん。到底お前では無理だろう、故にお前でも無事果たせるであろう些事だ――アイン、ウーゼルの奴は己の従騎士を大層可愛がっておる。最早、その扱いは我が子も同然らしい。そんな小僧が惨たらしく死ねば、奴はさぞ辛い思いをするだろうと思わんか?」
「……!」
「――殺せ。わかったな」

無論、当然。否定する権利などは存在せず、これまでの全てと同様に、あたしは口を開かず表情を変えず、ただただ黙して頷いた。半ば死刑宣告にも近いその命令に、あたしは頷いてしまったのだ。

■■■

夜風の冷たさに、あたしの意識は現在へと立ち戻る。見上げれば王宮の威容は既に目の前まで迫ってきていた。高く聳える城塞は漠然と見積もっても二十キュビット以上はあるだろう、如何に魄創術者といえど、これはそう易々と飛び越えられるようなものではない。

あたしは飛び乗っていた建物の縁で立ち止まると、城を見据えつつ大きく息を吸い込んだ。

此処から先は、後戻り出来ない。重ね重ね自問を行うが、夜間に許可なく城に忍び込むということは重罪だ。見つかれば終わりだ。覚悟を決めるしかない。

いっそ全てを投げ出してどこかへ逃げてしまおうか。いやいやそれはない。なんて馬鹿。それこそ正しく無意味に過ぎる。逃げ出してどうする、盗賊にでもなってみるか。無理無理、出来っこない。

何か新しいことを起こすにも、あたしの心はひどく摩耗してしまっていた。もう、何もしたくない。何も考えたくない。だって疲れてしまうから、どこにも行けないというのなら、何も考える必要もないはずだ。たとえ、この暗殺が失敗して死ぬことになろうとも、何も問題ない。むしろ、それで死ねれば救われるのではないか。生き残ってしまったばかりに送ることになった糞みたいな人生をようやく終わらせられる。自ら死ぬ気概すら持たぬ出来損ないは、運命に身を委ねよう。死ねるのなら、死ぬ。ただそれだけで。

そうしてあたしは、夜に体を投げ出した。羽ばたける翼はない。あたしは何処へも行けやしない。此処で一生、汚く惨めに生きていく。それしか、きっと出来ないから。

目を閉じて、風を切り、あたしの体は真っ逆さまに落ちて堕ちて墜ちていく。けれど脳裏へ浮かぶのは走馬燈などではなく、下調べの時に焼き付けた城内の風景。正門を入り、城の中庭に広がる豊かな庭園。

胸の奥底で、滾る何かがあった。強く強く、あたしはソレに手を伸ばす。生きたくないと願いながら、死にたくないと嘯く葛藤。なんて愚かでふざけてる。どっちつかずの半端者――みっともない。それでも、ああ。強く強く、何より強く、その葛藤を膨れ上がらせることで、血潮は巡り、心は十全に駆動する。

脳裏に浮かぶ情景が確固たる形を持つ。同時にあたしの肉体を通し、流れ出でる魂の命脈。このちっぽけな器を通し、あたしの心がまるで世界と感応するかのように共鳴を始めたような感覚を、錯覚して――実が結ばれた。

――此処ではない、何処かへ行きたい。

現像された夢想と共に、刹那消失した浮遊感。そして次の瞬間に、あたしの体は生い茂った緑の中へと突っ込んでいた。

「んぐっ……!」

木々を折る音を最小限に抑えるため身を丸めながら、あたしは樹木に茂る緑の中から脱した。すぐに体制を整えて、するりと地面に降り立つことに成功する。

素早く周囲へ視線を走らせ、同時に識を応用した索敵術により周囲の生命反応を探知する。直近に反応が三、こちらへ近づいてきている。少し遠方に反応が四、いや五。動いているが方向はまばらだ。

熟練の魄創術識者にならば、識の発動からですらあたしの存在を察知される可能性が高い。あたしは現奏は使わず、地力のまま暗い庭園内の疾走を開始した。

しかし――無論、王宮の警備網を簡単に突破できるはずがない。いずれにせよ、あと何度かあたしの識を使わなければならないだろう。

そう、あの男があたしに目を付けた点はそこに収束する。即ち魄創術識における最高の資質を示す異能。術識者の奥の手とも呼べる固有能力の発現――唯奏・阿頼耶識。

大海を挟んだ東の大陸では優れた魄創術識者が数多く存在するというが、ここ西大陸においては識の素養に恵まれた者は少ない。唯奏位階まで到達出来るほどの才能は正しく希少だ。そして奇しくも――あたしにはその才能が備わっていた。

切っ掛けは八年前、辛くも町の壊滅から生き残っていたあたしを見つけたあの男とその配下の兵たちが、あたしに薄汚い真似をしようとした時だ。原理不明、解明不可――あたしが奴の兵に襲われる直前、どういうわけか兵士たちは消失してしまった。綺麗さっぱり、跡形もなく。

かと思えば、突如空中に出現し地面に落下。全身を打ち再起不能に陥った。その摩訶不思議な芸当を、すぐにあたしが無意識に発動した識によるものだとあの男は見抜いたのだ。

つまりそれこそが、あたしの生まれ持った才覚の芽生えであり唯奏位階の兆しだった。

今は短距離の空間転移――それも自在に発動出来るわけではない――という異能として一応は行使出来ているが、恐らくはこれでようやく初歩だ。あくまで感覚的なものだが、あたしの唯奏はもう少し発展できるものだと思っている。……然るべき特訓を積めさえすれば。

故に、決して容易くはなかったが、要所要所で識を使い潜り続ければ、どうにか城の堅牢極まる警備網を掻い潜ることが出来る。半ば運頼りであり、すぐさま見つかる可能性すらあったが――必死に駆けずり回るうち、いつの間にかあたしは目的地付近へたどり着いていた。

我が飼い主の住居よりも一回り、いや二回りも大きな三階建ての邸宅。これが、ウーゼル・“アルトグレイス”にあてがわれた専用の屋敷だろう。常ならば、騎士の従者は仕える主と住まいを同じにするようになっている。もちろんあたしは別だが、その慣習に準ずるならば標的たるアーサーもここにいるのだろう。

ここまで来ると警備は既に見当たらない。恐らく、ここまで侵入を果たせた者は未だかつて存在しないだろう。そもそも、この区画まで入り込む意味も存在しない。聖円卓に連なる騎士たちを狙っての暗殺行為などはどれだけの痴愚であろうと考えつかない。まず不可能だからだ。誰もがそれを知っている。

しかし、ウーゼル狙いではないとはいえ、聖円卓騎士の住居に忍び込もうと考えているあたしはやはり壮絶極まる愚者ということになってしまうが、まあその通り。完全に自殺行為だ。

などと考えつつ、黙々と識の探知網を広げ始めるあたしの淡泊さ。仕方ないだろう、もはやここまで辿り着いてしまった。あたしにできることは命じられたことを終わらせるだけ。元よりそれしか能がないし、何度も自問した通り生きるも死ぬもあたしにはどうでもよいことなのだ。

「――!」

息を呑む。網が探知した屋敷からの反応は複数。微小な魂の揺らめきがほとんどだが、大きい反応が二つ。特に内一つは、凄まじい質量だ。まるで一個の星を内蔵しているかの如く、強く激しい魂の熱波だ。それに比べるとさすがにもう片方は控え目に思えるが、アルダリアの平均的な魄創術識者と比べてみても驚異的な煌きだ。あたしなんぞよりも当然優れている。

こいつか――あたりをつける。馬鹿デカい反応は間違いなくウーゼルだ。ならばこちらの反応がアーサー・フェルマータのものだろう。以前よりも更に強靭かつ強固な魂魄を持つまでに成長しているようだが、つぶさに探れば昔日の面影がある。

行くしかない。退くという選択肢はとうに自ら投げ捨てた。

反応は二階の一室から出ていた。駆け出し、部屋の下まで到達すると再び現奏を用いた跳躍を行い、突き出したバルコニー部分に降り立つ。窓はなく、あたしの背丈以上はあるガラス張りの扉で仕切られていた。カーテンが閉じられており、その隙間から明かりが漏れ出している。

ガラスに手を重ねると、何の抵抗もなく押し開けることが出来た。施錠もしていないとは不用心だが、その必要もないということなのかもしれない。

静かに、衣擦れの音すら立てぬよう室内に侵入する。まず埃臭さが鼻孔をくすぐった。両脇には高く聳える壁――いいや、これは棚――本棚か。この埃臭さの元凶は、収納された蔵本によるものだとわかった。

どうにもここは蔵書室であるようだった。円形状になっている部屋の中央に吹き抜けがあり、一階と二階、それから三階と繋がっている。

吹き抜けの縁に設けられた手すりまで移動すると、あたしは身を屈めながら一階部分を見下ろす。二階三階は部屋の間取りに沿い円状に膨大な本棚の数があったが、一階部分はえらくこざっぱりとしていた。壁面に暖炉が設置されており、暖かな光をちらつかせている。薄い明かりの元はアレか――と、そこまで観察したところであたしの目を引く物体があった。

暖炉の傍には夥しい本の山が積み重なっており、その中に埋もれる様にしてふっくらとした椅子が置かれている。そして、乱雑に装丁された山々の中で微かに蠢く小柄な影が存在するのをあたしは認めた。

誰かがいる。そしてそれは、間違いなく目的の人物であるはずだ。手すりから身を乗り出すと、あたしは一階へと布が落ちるように柔らかに舞い降りる。

寝ているのか――?

影は規則的な動きを繰り返している。体勢的に、椅子の上で丸まっているように見えなくもない。それならば好都合だ。最悪見つかることで抵抗も覚悟していたが、これならば速やかに仕留められる。

抜き足のまま爪先を擦らせる独特な歩法で気配を完全に消し、あたしは奴へと近づき始めた。腰元からするりと短剣を引き抜き、逆手に構える。

目覚めさせぬよう、気づかれぬよう、細心の注意を払いつつ、距離を詰めていく。その最中、あたしの中では昔日の褪せた記憶が去来していた。あの飼い主に拾われて間もないころ、まだ使い物になるはずのないあたしは奴に王城にて騎士の小姓のみを対象に開かれていた養成学校に押し込まれた。

厳しい鍛錬の日々ではあったが、思えばあの時があたしの中では一番楽しかった思い出であるかもしれない。当時、学校ではアイン・カルティエールはこと弓術において天賦の才を持っていると教官などからは評されていた。

――こう射れば、必ず当たる。そのような直感めいた感覚に頼り射的を行っていただけだったが、いつの間にか百発百中の腕前を誇るまでになっていた。恐らく元々空間の認知能力があたしは極めて高いのだろう。夜間においても夜目が効くというのは、即座に周囲の環境を立体的に分析・構築することで見えずとも感覚的に周囲の構造を具体的に把握出来るからだ。

その能力は、今にして思えば、恐らく空間そのものに干渉するあたしの魄創術識による副産物のようなものだとわかる。あたしが居た頃は、「あいつ」を除き優れた識の素養を持つ連中は居なかったから、そのようにして抜きんでてしまうのも仕方のないことだったのかもしれない。

よって、順当に捻りなくというか、あたしにはお友達なんぞ居はしなかった。元々、ご同輩はどいつもこいつも高名な騎士サマの子息だとか、そんなあたりだ。あたしのようなやつは、弓の件がなくても必然的に浮くと決まってる。

尤も、それが苦痛などとは欠片も思わなかった。一人の方が、気ままでいい。煩わしい現実の問題など考えず、ただ体を動かすだけでいい毎日は本当に楽しかった。そう思っていたのだが――。

――やあ。そこ、そんなに寝心地がいいのかい?

なんて、木の上で昼寝をしていたあたしにかけられた死ぬほど呑気な声。そう、それが初めての出会いだった。

……辿り着いた。本の山を崩さぬよう、合間を通り椅子の前に立つ。果たして――奴は、「お惚け」のアーサーは、相も変わらず間抜けた顔で眠りについていた。

夜更けまで書物を読み漁っていたのか。ウーゼルはこいつにかなりの自由を許しているようだ。多少、顔立ちは成長して変わって見えるが、昔と変わらない呑気な顔は正しくあのアーサーだ。

す、と――短剣の刃を無防備にも曝け出された首筋に近づけた。

いとも容易く殺せる。これほどすんなり物事が進むとは思ってもみなかった。あたしがしくじれば間違いなく飼い主にも極刑が下されるだろうから、そうなれば楽しいななどといったことまで考えていた。だけど少し、もう少し力を入れればアーサーを殺せる。

あたしのことなど、覚えてはいないだろうな。交流した時間は余りにも短く、そしてあれから少なくない時が流れた。アーサーの奇抜な振る舞いはあたしの中で未だに強い印象となって残留してはいるが、こいつからすればあたしなどあまりにも取るに足らない存在だ。

目を細め、短剣を握る手に力を込める。

今からあたしに殺されるというのに、最期の時まで安穏としやがって。あたしとは違う、恵まれた環境で育った旧友の寝顔を見つめていると沸々と出でる苛立ちがあった。

「……“そこ”は、そんなに寝心地がいいのかよ」
「うん、すっごい柔らかいんだよねぇこの椅子」

――――。

躊躇いなく右手を突き出した。が、手ごたえを感じる間もなく痺れるような衝撃と共に、次の瞬間あたしの視界は部屋の天井を映していた。

何をされたのかはわからないが、何かをされたことだけは確かだった。すぐさま空中で身を捻り着地。そのまま大きく後退する。

アーサーはひどく長閑に、大きく伸びをしつつ椅子から立ち上がっていた。

「ふぁ――やれやれ寝ちゃったよ。やっぱり駄目だなぁ、集中が続かないね。兎にも角にも、起こしてくれてありがとう。ところで君は……あれ?」

まずい、まずいまずい。迂闊に過ぎた。何をやっているんだ、標的を前に二の足を踏むなど大馬鹿にも程がある。挙句、起こしてしまったし顔も見られた。ああもう、まずい。殺す、殺して、終わらせる。もうそれしかない――!

加減は要らない。相手は聖円卓第一席に仕える唯一の従騎士――音に聞く剣技も識も生半可で済むわけがないのだ。初手必殺、それのみを狙う。

現奏・六識――魂が駆動し、体中へ力が漲る。標的は一人。一直線に、跳ぶ。衒いも何も必要ない。瞬間的に雷閃の如き速度へ到達し、ただの一足でアーサーの至近距離へ再度接近する。周囲に未だ積み重なっていた本の山と椅子が余波で吹き飛んだ。

「あれ、君って、君ってさ。もしかして――」

狙うは急所。まずは胸に一突き、そして首筋を刈る次の一刀。狙い澄ました手順通り半ば反射的に手が動く。速度は十分、瞬きする間すら与えはしない。

「ぐッ――!?」

刹那、再び痺れるような衝撃が右腕に走る。同時に、握りしめていたはずの硬い感触が綺麗に消失してしまっていた。

飛ばされた。しかし、アーサーは指先一つ動かしていない。ならば、術識か――恐らくは心奏、簡易的な念動力だ。あたしが右手に握っていた短剣へ的確に作用させ、弾き飛ばした。あるいは、腕そのものに何らかの識を走らせたのかもしれない。いずれにせよ、今の一瞬で行うにはあまりに繊細な芸当だ。高度な技量と精神力が無ければ出来るようなものではない。

二度目の肉薄で、あたしはすぐに理解した。こいつとあたしとでは、力量の差が桁違いだ。分かっていたことだが、昔日のアーサー・フェルマータとはまるで違う。

「――くそッ」
「ちょ、ちょっと待っ」

右手をしならせ鞭のように拳を繰り出す。顎先を狙ったつもりだったが、アーサーは首を捻るのみで躱した。――嘘だろ、見てから避けていやがる。

当惑を浮かべながら、実に冷静に、ともすれば恐ろしく冷めたようにアーサーの両眼はあたしを見据えていた。現奏で身体能力を強化しているのはあたしだけではない。既にアーサーも識を発動し、感覚器官を始めとした身体の強化を行っているだろう。この程度の速度では、こいつの目から逃げきれない。

ならば、次の次の、次の手を考える。ここでこいつを仕留めなければ、あたしは終わりだ。――? いや、既に終わってるだろお前は。

「――あァッ!」

過る雑念を振り払うように、今、この瞬間に叩き出せる最大最速の突きを繰り出す。フェイントを織り交ぜた上での一撃。速さだけなら、僅かにアーサーの目を振り切っているはずだ。しかしそれでも完全ではない、避けられる可能性もある。故に、次の次の、こいつを仕留めるための算段を無数に巡らせ――。

「ああ、もう。よし!」

と、何かを決意したように奴は思いっきり顔を顰めて――。

――恐ろしく鮮やかに、あたしの拳打はアーサーの頬を打ち抜いた。鈍い音が蔵書室に鳴り響き、端正な流線を描いてアーサーの肉体が弾け跳ぶように虚空を舞う。完璧な手触り、だが意図せず得た感触に思わずあたしは呆けてしまった。

「おぁ……き、効いたぁ……」

アーサーの呻くような声に、我に帰ったあたしはすぐさま弾き飛ばされた短剣を心奏による念力で引き寄せると、仰向けに倒れたアーサーへ目掛けて飛び掛かった。

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