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Special

 
 
 
――Blazing Soul Prequel――
「-華胥夢-」

「……だからシオンは思ったのです! シオンも父様のようにお医者さんになって父様のお仕事を手伝えば、父様は忙しくなくなってもっとシオンと遊んでくれるのです!」
「そうだな。シオンが私を手伝ってくれれば、きっとシオンと過ごせる時間もたくさん増えるだろう。だが、シオン。それには今よりもいっぱい勉強しなきゃならないんだぞ?」
「うえ、もっとべんきょうしなきゃだめなのです? がっこうのべんきょうじゃ足りないのです?」
「ダメだなぁ。それだけじゃ全然足りないぞ」
「う、うゆ……じゃ、じゃあ父様に教えてもらうのです! 父様にいっぱい勉強を教えてもらうのです。そうしたら父様と一緒にいられる時間も増えるのでいっせきにちょう? なのです!」
「ほう、私は別に構わないが。そうするとたぶん、お前に勉強を教えた時間の分だけ父様の仕事が増えて、結局シオンと一緒にいられる時間が少なくなってしまいそうだな。それでもいいのか?」
「え、ええ? それは嫌なのです! い、今のままでも大丈夫なのです! シオンが頑張っていっぱいいっぱい勉強すればいいので、もんだいないのです!」
「お、ようしその意気だ。偉いぞ」
「貴方。それにシオンも、はやく食べないとお料理が冷めちゃいますよ」
「はわわ、ごはんも食べるのです!!」

食卓を囲む賑やかな団欒は暖かく、心に深く染み渡る。レンカの用意した食事も全て漏れなく絶品だ。日々変わらぬ味わいに私は惜しみなく舌鼓を打つ。

「そういえば、アスナムのお爺さまがまた腰を痛められたそうですよ」
「何? ……どうせまた生徒相手に無理をしたのだろう。あの御仁はさすがにご自分のお歳を鑑みた方がよろしい」
「くすくす、けれどもあの方の道場は中々の人気だそうですよ。何でも町の方からわざわざ通われる門下生の方もいらっしゃるとか」
「盛況のようで結構だが、何かある度に呼び出されるのは勘弁してもらいたいな。確かにここいらの医者は私だけだが、そもそも怪我などしない方が一番だろうに……」
「貴方もたまには通われては如何ですか? 近頃、まともに運動などもなさっていないでしょう、すこし頬が膨らんだのではございませんか」
「――本当か?」

反射的に両手で自分の頬を触ってみる。別段ふっくらとした感触はなかったが、言われてみれば以前よりも少し張っているような……。

「あら、とても可愛らしいお姿ですこと」
「な……レンカ! 私をおちょくるんじゃない!」
「あ、シオンもやります! 母様! どうですか、シオンも可愛いですか!」
「あらあら、シオンはいつでも可愛いお姫様ですよ」

夜はこうして更けていく。今日も明日も昨日も変わらず明後日も、シオンの成長を楽しみながら、私とレンカは生きていく。いつも変わらず、不変に過ぎた変わり映えのしない毎日を、今日も明日も昨日も変わらず明後日も。変わらず、変わらず――愛おしく、愛惜しく。

「……貴方? どうかなされましたか」
「ん、あぁいや、なに。こんな時間がずっと続けばいいのになと考えていただけだ」
「……本当にどうなされたんですか? 普段はそのようなことを仰る方ではないのに」
「う、別に構わんだろう。私でもたまには、夢想めいたことを考えるものだ」
「感慨深くなるにはまだお若いのではないですか。ともすれば、私がそう思っているだけで貴方はすっかり老け込んでしまったのかしら」
「ぐ、そんなわけなかろう。今日はいやに口が辛いぞ、レンカ」
「シオンも父様と一緒です! シオンも父様と母様とずっとずっと一緒にいたいですー!」
「おっと、もちろんわかってるさシオン。そう暴れるな」
「くすくす、そうですね。だから貴方、今度はもう少し早く戻ってきてくださいね」
「? なんだって――」

――――そうだな。今度はもう少し、早く戻ってくるよ。

「ずっと、待ってますから。ねえシオン」
「うん! ずっと待ってるよ! 父様!」
「お、おい。二人とも一体何のことを言っているんだ」

――――そうすれば今度こそ、今度こそ間に合うから。

「さようなら、愛しい貴方。愛しいフォーリ」
「レンカ――?」

爆ぜる。とも違う。脈絡なく、呆れ返るほどの鈍さで、レンカの体が何個にも分けて紐解かれるように崩れて落ちていく。やがてべしゃりと地面にレンカたちが叩きつけられると、赤黒い液体がどろりと床に伸びた。

「父様、シオンは父様と母様のことが大好きです!」
「――――シオン?」

――――痛いよ、痛いよ、痛いよお。

見下ろせば、シオンはいつものように眩すぎる笑顔を私に向けている。なんて輝かしいのだろう。私とレンカにとってこの子は正しく宝石だ。この子が健やかに育ってくれるなら、私は、何を捧げても構わないとさえ思えた。

膝に乗せたシオンの体はまだまだ軽い。そう、軽いのだ。まだこんなにも小さくて軽い。これからどんどん成長してくれるはずだ。背は伸びて、レンカに似て美しく育ってくれるはずだった。そう、今のシオンはまだ軽い――こんなにも、軽い。小さな、本当に小さな女の子でしかなくて……いや、軽すぎる。

「シオン――、」

シオンを抱え上げる。するとどうだろう、“無い”じゃあないか。ダメだろう、どこで落としたんだ。これじゃあもう、一緒にかけっこや散歩は出来ないぞ。ダメじゃないかそれじゃあ。医者になるんだろう。これじゃあ勉強どころじゃないぞ。

――激しい明滅。鈍く鋭い冷熱の衝撃に、私の体は野原の上に吹き飛んでいた。


汗が流れ出していたが、恐ろしく凍てついている。体中が冷たい。両足が引き攣っている感覚があったが、私は構わずすぐさま立ち上がると、再び全力の疾走を開始した。

レンカと共に生まれたばかりのシオンを連れ、穏やかな空気を求めて、山々に囲まれたこの村へ越してきたのはいつのことだったか。周りの人々は皆が優しく、そして和やかな村の空気と嫋やかな自然はシオンにとっても、私たち夫婦にとっても心安らぐものだった。あの頃は、希望に満ちていた。今もそうだ。そう思えるほど、この村はとても居心地の良い場所だった。

脇目も振らずに、坂道を駆け上がる。時刻はちょうど夕食時、どこもかしこも賑やかなはずなのに。明かりの点いた家はない。村は死んだように静まり返っている。月の明かりだけが、私を照らし、私の激しい息遣いだけがやけに煩く響くのみとなっていた。

――魂喰鬼、と呼ばれる怪物がこの世界には存在している。噂には聞いていたし、この近辺でも目撃例が上がっていたが、私は今まで見たこともなかったし、どこか外の世界のことであるかのように考えていた。今日、までは。

先ほどから視界に映る異常のことなど私は欠片も考えていない。どうして皆の家が無残な様相を呈しているのか、道端や、家の戸口らしきところに倒れ伏しているあの塊は? いたるところに撒き散らされている、月光を帯びて鈍く輝くあの液体は? ああわからない知らない見えない考えない。少しでも、理解を示してしまったのなら、きっと私はもう動くことが出来なくなるから。

――走るのだ。走るのだ。走るのだ。

町の病院へ書類を提出し、出会った知人としばらく語らい気が付けばしまったこんな時間だ。予定よりもずっと遅い。さすがにそろそろ帰らねば、妻と子供が怒るから。おやおや尻に敷かれたかフォーリうるさい構うな幸福の対価に過ぎぬから。

ああ、ああ。何を呑気に、何を悠長に。

走るのだ。家に、帰らねば。レンカとシオンが待っている。約束よりも大分遅くなってしまった。潔く、真っ当に叱られよう。それからいつものように三人で、ご飯を食べよう。それから、それから――。

それから――おかえり。貴方。
それから――おかえりなさいです。父様。
それから――おかえりなさい。おかえりなさい。

おかえりなさい。フォーリ・イ・クザナ。

「――――」

鼓動の音がいやにうるさい。忙しなく呼吸を繰り返しているのに、一向に肺は酸素で満たされない。激しく咳き込みながら私はその場に倒れ伏した。

麻痺したのか、両足の感覚がなかった。どうにか立とうとしても痙攣するばかりで動かせない。仕方ないから這うようにして私は移動する。

玄関口に差し掛かったところで、二人の名を呼ぼうとする。しかし、声を出そうとしても激しく咽てしまうだけでどうにもならなかった。

這って這って――這い続けて。私は、居間に当たるはずの空間へ辿り着いた。

蒼褪めた月が、群青の光が、全てを照らしてくれていた。

強引に剥がされたかのように天井は消失し、昨日囲んだはずの食卓も椅子も何もかもが無残な姿で散乱している。壮絶極まる嵐にでも遭ったかのようだ。それならば、まだ、良かったのに。

見慣れた家具の残骸の他に、散らばる何かがあった。零れ広がる何かがあった。ぬめりと。私の手を濡らす液体は、果たして何であるのか。

棒切れのようなものが数本、あとは何かの――塊か。やれやれこんなに散らかして。レンカは一体何をしてるんだ?

内心でため息を吐きつつ、こういう時は私がしっかりしないとな。などと途端に謎の使命感を発揮させて、私は相変わらず這って進みながら身近にあった棒切れを掴む。

見たことがある気がした。ただの棒切れであるはずなのに、以前にも触れたことがあるような気がした。先端が五つに分かれた特異な形状をしている。枝分かれした内の一つに、淡い月光を浴びて輝く何かがあった。

なんだろうと、私はそれを見つめた。すぐには分からなかったが、そうして見つめていると、何気なく正体に思い当たる。ああ、なんだ。私が彼女に贈った指輪じゃないか。

――――――――――――――――。
――――――――――――――――。
――――――――――――――――。

何をしているのだろうと、ふと顔を上げる。結局あたりに散らばっていたのはレンカの腕や足、あとは不定形な肉塊だとか臓物らしき数々だったので、ひとまず一心不乱に寄せ集めては繋ぎ合わせようと奮闘していたのだが、足りない部分があまりにも多すぎたためにどうにもなるわけがなく。

寒いなぁと、私は思った。季節的にはまだ暖かいはずなのに。極寒の最中へ放り出されたように私の体が凍て付いていた。乱れる雨風も荒ぶ吹雪もないはずなのに、体中くまなく濡れてしまっている。何故だろうか、分からないが。酷く、酷く寒かった。

――。

「――――!」

声が聞こえた。虫の羽音にも劣る弱く細く恐ろしく小さな声だが、確かに聞こえた。誰の声だ? 決まっている、ただの一つしかありえない。

声にならぬ唸りのようなものをあげながら、私はレンカたちを大切に拾い上げて抱えつつ、息を切らして声の元へと這う。

祈るように、祈るように。未だ脳裏は空白で満ちていたが、その一念だけをただただ握り締めて、私はぬめる床を這い続けた。

そうして行き着いたのは、家の庭だ。レンカが栽培していたささやかな野菜畑は見る影がない。しかし荒れ果てたその中央に、小さな体が横たわっているのが見えた。

「――ッ、オン!」

叫びながらシオンの傍へ近づく。――生きてる。生きてくれている。けれど、ああけれどけれど虫の息だ。それになんて酷い。下が、下が“無い”じゃないか。

「ッ――めだ、だ、めだダメだ駄目だ駄目だ駄目だ」

無意識かつ迅速に、私はレンカを下ろしてシオンの腹部へ手を重ねる。さあ廻れ頼むこの子を助けなきゃならないんだ。だから早く早く早く、胸の奥底で滾る熱へと腕を伸ばす。

灯る淡い紅藤の光――即ち、心奏からなる治癒術の発露。

“これ”を使った経験は数えるくらいしかありはしない。治療の際に、どうしようもなくなった時に頼るだけだ。ただでさえ、不安定なのだ。私には「魄創術識」の素養がない。確実でないものに縋ることは今まで避けてきた。だが、そんなことを言っていられるはずがないだろう、この状況で。

――――脳の片隅で、無駄を理解しておきながら。

「シオン、――シオンッ」

ひび割れた声で、必死にシオンの名前を呼びかける。最初は完全に意識を失っているようだったが、呼びかけながら腹部への治癒を続けていると薄く、その目蓋が押し広げられていくのを認める。

「シオン、シオンッ! 私がわかるか!?」
「と、う……さま」
「ああ、そうだッ。シオン、シオンッ!」
「とう、さま……」

駄目だ。まだ意識は確然としていない。これでは駄目だ。

「大丈夫だぞシオン、私が……お前を助けてやるからッ」
「……とう、さま」
「くそ、くそくそくそッ。治れ治れ治れェ!」
「……――痛い、よお」

――――あ。

「……し、おん。痛い、よ」
「――シオン」

「いたい。痛い、よ。痛いよ。痛いよお――とうさま」
「あ、――あ」

なんて、愚かなんだ。私は、何をしている? シオンを、助ける? 

なんたる愚物。どうしようもない大馬鹿者だ。

助けられるはずがないだろう、下半身が無いんだぞ。それにこの出血量、まだ息をしていたことさえ奇跡だったのだ。最早、どうにも出来るはずがない。ならば今私がしていることは、ただこの子を苦しませ続けているだけだから。

「痛いよ。痛いよ。痛いよお」
「シオン――」

土に感覚の戻りつつある膝をつき、どうにか私は体を起こした。そのままシオンの小さな体を抱き抱える。もう、術識を使うのは止めた。

「痛いよ、とうさま。いたいよ」
「ああ、ああ。痛いだろう。苦しいだろう、すまない。すまない」
「とうさま、とうさま。とうさま……」

すまないシオン、こんなにも情けない父親をどうか、どうか許しておくれ。無理なんだ。シオン、私はお前を楽にしてやる勇気すら持てやしない。すまない。すまない。すまない――すまない。

「とうさま……とう、さま……いたいよ…………とうさま……」
「……大丈夫だよ。シオン、大丈夫だ。父様はもう何処にもいかないよ。だから、だからゆっくりとお眠り。目が覚めたら、勉強を教えてあげるから。父様と同じ、医者になるんだろう。だから……今は早く、眠りなさい」
「…………とうさま。やく、そく、で……す」
「ああ――約束だ。シオン」

薄く、とても薄く、シオンは笑ったようだった。そしてそれを最後に二度と動くこともなく、声を出すこともなくなった。

「シオン」

一度だけ、名前を呼んだ。しかしやはりシオンは二度とも笑わないし、私を呼ぶこともなかった。

鈍重に首をもたげると、驚くほどに美しい星空と月が見えた。

青褪めた月と、煌く星の海だけが、彰々と息づいていた。

 


■■■

 


――日暮が鳴いていた。

かなかなかな、かなかなかなと。物悲しげな囀りが、馬車の軋みに挟まりながら、どこか遠くの彼方から、微かに幽かに響いていた。

静かに目蓋を開ける。視界に映るのはいつも通り半分だけが欠けた世界。体中に付き纏う倦怠感、鳴り止まぬ頭痛。脳裏へ残響するは、遥かなセピアの懐古的で擦り切れた泣きじゃくる誰かの声。

ようやく、目覚めることが出来た。確信する、これぞ俺が生きる世界。この鈍色の世界こそが、俺の生きる現実だ。

「……なあ、あんた大丈夫かい? ひどくうなされているようだったが」

左向かいに座る人の好さそうな男に声をかけられる。私は一瞥だけを与え、かぶりを振ってその場に座り直す。

「顔色も悪いしよ。酔っちまったか? もう少しで町に着くだろうから、まあ頑張れよな」

頑として、俺は口を開かない。いつでも気分は最悪だが、決まって「夢」を見た後はそれに輪をかけて糞溜めに落とされたかのように最低の心地だ。

馬車の入口から外を眺めれば、鬱蒼とした森林は焦れた夕闇の色に染まっている。気が付けば、日暮の囀りはもう聞こえなくなっていた。ざわめく木々の合間には、野鳥の類も見られない。――ぞわりと、背筋に走るものがある。

「……おい、貴様」
「ん、俺か?」

目線を外の景観から外さないまま、私は声だけで男に呼びかける。

「ここから降りろ。死にたくなければな」
「はあ? おいおい、何言ってやがんだあんた――」

言うや否や、私は瞬発的に飛び出し馬車から転がり出る様にして地面へ倒れこんだ。

「な、あんた――」

異常な風切り音。私が馬車を見上げると、ちょうど驚いたように私を見下ろす男と目が合う。そのまま、“ぐしゃり”と――何か巨大な物体に、馬車ごと叩き潰された。

のろりと立ち上がり、埃を払う。馬車を踏み潰したのは巨大な柱のような物体だ。上へ上へ、視線を滑らせればそれがただの柱ではなく、果たして何かの“足”であるのだと分かる。

ともすれば、巨大な象のようにも見える。だがすぐに誰もが違うと思い改めるだろう、まず象にしては異様に巨大。更には胴体や頭部にあたる部分で蠢く無数の触手は何なのか。ぎょろりと浮かび上がる無数の眼球は何なのか。およそこの世の生物とは思えない、あまりにも様変わりなグロテスク。

そう、これが“魂喰鬼”――無差別に、昆虫的に、ただただ生きとし生ける全ての生命を捕食し殺し尽くす異形の怪物。

あまりにも威圧的、あまりにも奇怪的、あまりにもその姿はおぞましい。常人が直視すれば発狂しかねない何たる異様。故に故に――たまらず俺は、にたりと口端を吊り上げた。

出会えたことが嬉しくて嬉しくて、ついつい頬が緩んでしまう。どうしようもない、止め処ない。ようこそ、初めまして。この邂逅を寿ごう、会えてよかった。さあ、惨たらしく死に腐れよこの屑め。

「――“散華ニ咲ク哉、病ミ諂ウ巫蠱ノ白詰”」

呪わしき花々よ、黒洞々たる無明のソラへと咲くがいい。我が祈リ/呪イは永劫不変。遍く全てが汚らわしい。故に死ねよ、滅び絶えろ。価値無き醜悪な肉塊どもがよ

駆動するは漆黒の熱を灯す我が魂。憎い憎い憎い憎い、許されない我慢がならない貴様ら全て死んで死んで死んでくれよ頼むから。それだけが、俺の――私の、ただ一つの願いであるのだからと、切に……切に……。

故に捻りなく順当に、俺の魂魄が呪わしき世界全てと感応し、そうして此処に禍々しい災禍を撒き散らす。影より出でる暗黒は、この世の何処へも繋がらない別種の命。さあさ舞えよ貴様ら。我が心の生み出す被造物でしかないのなら、目の前の塵を無様に惨たらしく喰らい散らかせ。

――現実は、地獄なのだから。

地獄と変貌しつつある森の中で、狂おしい哄笑の叫びだけが、空しく恐ろしく、ただただ響き渡っていた。

哀しく空しく恐ろしく、切に切に……遍く刹那を呪いながら……。

 

 


                                            了


――花が、散っていた。

藤にも似た、浅い紫の花弁。筒部には蒲公英を思わせる鮮やかな黄が咲いている。美しく、気品に満ちた花であったが、なぜだろう。どこか儚さをすら感じさせた。

――華が、舞っていた。

我に返ると、私は一面の花畑に立ち尽くしているのだと気が付いた。咲き誇るは同じく青みがかった紫の花々。美しく、淡く、物悲しく、静かに涼風を帯びながら、可憐に小粋に花弁を舞わせ吹かしていた。

――なんという、花だろう。

見たことがあった。確か、立秋にかけて咲く花であったはず。

舞い散る花々に現を抜かし、忘我の淵にあった私の脳はどこまでも呆けてしまっていた。巡らせる思惟は何処へも行けずにか細く潰える。ふとした折には、すでに私は花の名前を考えることすら止めてしまった。

そうして、無限とも思える時を微睡にも似た心地で過ごしていると、新たに景観を彩る輪郭が見えることに気が付いた。

花畑の地平線、驚くほどに透き通った純白の空下に、ぼんやりとした二つの影が浮かんでいる。どちらとも大きさがちぐはぐだ。

舞う花びらから目を離し、影に視線を注いでみると、二つの内小さい方の影が何やら蠢いていることが確かめられた。なんだろう、あれは。何をしているのだろう。

目を凝らし、深く覗くように私は影を見つめ続けた。すると影を形作る曖昧な輪郭が、徐々に確固たる像を結んでいく。影は、どうにも人のようにも見えた。ならば、小さい方は背丈などからして子供なのだろうか。

――手を、振っている。

小さい影は、手を振っていたのだ。恥じらいもなく大振りに、体全体を揺らしながら元気一杯に手を振っている、誰に? 私しかいないだろう。何故? さあ、何故なのだろう。わからない――わからないな。

わからないよ。わからないんだ。どうして、どうして私は涙を流しているのか。どうして、こんなにも不安になるのか。悲しく、空しく、そして怒りに打ち震えなければならないのか。何もかも、私には理解出来なかった。

影に近づこうと、足を動かした。――動かない。何かで塗り固められたかのように、私の両足は私の意思に反し頑として動こうとしなかった。

影が薄まり、空白の向こうへ消えていく。ダメだ、行くな。頼むから。訳も分からず私は一心不乱に手を伸ばす。しかし伸ばしたと思った両の腕は、何故かぴくりとも動かせず。喉が引き攣るまで叫んでいるはずなのに、空いた口からは僅かな音さえ滲み出すことはなかった。

そこで、私はようやく気が付いた。全ては手遅れ、終わったことであるのだと。

幕が落ちるように、火花が弾けるように、瞬きをするように、純白の空が深紅に染まる。あれほど美しかった花々は夥しい肉塊に変じ、そこでようやく私の体は自由を取り戻した。

――何かを、抱えていた。

重さはほとんど感じない。小さな、本当に小さな物体。けれど両手で抱えてあげなければ少し支え辛い。落としてはダメだ。手放してはダメだ。根拠のない強迫観念に突き動かされ、私はその物体を抱えている。

悲鳴が聞こえた。怒号が聞こえた。雨が降っている。漂う鉄錆の香り、目に映るのは痛いほどの紅と、朱と、赤。

――痛いよ、痛いよ、痛いよお。

ああ。私は、私が何を抱えていたのか、脈絡もなく気づいてしまう。

これは、この子は、こんなにも、軽いのに――まだ、子供だったのに。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。


「―――……は、あッ」

水中から急激に浮上したように、私は飛び起きるとすぐさま酸素を求めるように大きく喘いだ。玉のように噴き出した大粒の汗が、突っ伏していた机の上にぽつぽつと零れ落ちる。

酷い、とても酷い夢を見ていた気がする。目覚めと同時に、直前まで浸っていたはずの悪夢は薄れ、果たしてそれがどういう内容であったのかすら秒刻みで忘れ去られてしまうが、本当に、本当に酷い夢を見ていたということだけは理解できた。

窓を見ると、既に外は暗闇が満ちていた。確か、最後に見たときはまだ夕日が出ていたはずだったのが、どうにもしばしの間居眠り続けてしまったらしい。私は照明具に明かりを点けながら机上に目を下ろし、半端な状態で作業の止まった書類を見つめて息を吐いた。

いかんな。ここ数日はあまり睡眠を取れていないから、さすがに疲れている。これを片付けたらしばらく休もう。

立ち上がり、適当な布で顔を拭う。漠然とした嘔吐感が立ち込めている。よくないな。医者が不摂生に体調を崩した挙句、療養もしないとなれば患者に示しがつかない。

窓へ近づき、外に視線を漂わせる。私の家は、村里より少し離れた丘の上に建っている。故に、こうして景観を眺めてみれば、眼下に広がる明かりのついた皆の家々が、蛍の光が如くに夜暗を照らし彩る様を見下ろせた。

暑くもなく、寒くもなく、かといってぬるくもない程よき風が涼やかに私の頬を撫でていく。かなかなかな、かなかなかなと……日暮の囀りが、夜天へ切なく響いていた。

「――貴方、貴方」

呼びかける声があった。振り向けば、暖簾をめくり妻が顔を出している。

「レンカ」
「お仕事中にごめんなさい。夕餉の支度が済みましたよ。……あら、どうなされたの。酷い顔……」

レンカが慌てたように私へ駆け寄り、そっと頬に手を添えてくる。料理のために水へ浸っていたからであろう、妻の手は冷たく心地よかった。

「大丈夫だ。少し、疲れているだけだろう。ゆっくりと眠りさえすれば問題ない」
「もう、ご無理はなさらないでと日ごろから言い付けておりましょう。また根を詰められて……」
「すまんな。ただ、どうしても近日中に町の病院へ提出しなければならない書類があるんだ」
「例の病気に関する論文でございましょう? 存じておりますが、この村でのお医者様は貴方だけなんですからね。本当に、しっかりご自愛くださいな」
「わかってるさ。今日はさすがにもう止める」
「もう……」
「……悪かった。そう心配そうな顔をするな」

私はそっと彼女の手を取り下ろすと、両手で包み込む。レンカは困ったように私を見つめていたが、そうすると眉を八の字に曲げつつもやんわりと微笑みを返してくれた。

「母様ー! 父様ー! シオンはお腹が空きましたー!」

突然、居間から轟いた元気な声に、私とレンカは一瞬きょとんと目を見合わせ、それから同時に笑い出してしまった。

「おっと、我が家の姫様がお冠だ」
「あらあら大変。ご機嫌を取りに行かなくちゃ」

くすくすと二人で笑い合いながら、私たちは居間へと移動する。先ほど見た夢のことなど、最早欠片も思い出すことはなかった。

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