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Special

 
 
 
――Blazing Soul Prequel――
「-Festina lente-」


そう言って、父親はトゥハの頭をがしがしと乱暴に撫でる。撫でるというよりは、彼女の頭を掴んでぐりぐりと乱雑に動かしているだけのようにも見えたが、トゥハにとってはそれが父から受けるご褒美のようなものだった。小動物のような声を上げながら、徐々に笑顔を面貌に取り戻していく。

「うう~~次は絶対に当てる! 絶対!」
「おう、その意気だ。ま、今日はひとまず獲物を連れて帰るとしようや」
「にゃー絶対に当てるもん! 絶対だもん!」
「あーわかったわかった。ったくしょげたと思ったらすぐこれだ」

そうして、賑やかな喧騒を振りまきながら二人は帰路につく。晴れていた空にはいつしか暗雲が立ち込め、ぼやけていた日輪をさえ覆い隠しつつあった。

 


■■■

 


「――……でも、絶対にうまくいったと思ったの。絶対に当たると思ったんだもん」
「うだうだうるせぇな。結局ダメなもんはダメだったんだから、今更んなこと言っても意味ねぇんだよ。次だ次、次のことを考えとけ」

部族の集落へ通じる道を。仕留めた馴鹿を背負い歩む父親とトゥハ。先ほどの狩りがよほど不満なのか、あれからトゥハは己か、はたまた成し得なかったという結果そのものに不平不満を絶えず口に出し続けていた。

「んにゃー……でも、でもでもあたし、はやくお父さんみたいになりたい。お父さんみたいにうまく狩りが出来る様になりたいし、お父さんみたいにおっきくなりたいし強くなりたい!」
「おうそうか。その心意気は立派だがよ、まあそう急ぐなトゥハ。急いだって仕方がねぇんだ、なんせお前はまだ餓鬼だからな。餓鬼なんてのは餓鬼なりに、普通ただ笑って走り回ってりゃそれでいいんだ。だからお前はよく頑張ってるよ。本当にな」

子供は子供なりに――自分で言っておきながら、何よりも自分自身は己の娘にそれを徹底してやれなかったことを彼は少々悔いている。族長たる己の娘なのだから、常にそれを意識せよ。己が一線を退いた後、部族全体を仕切る長の器として、常に自己鍛錬を怠るな。などと、彼女へ言い付けていたのは他の誰でもない自分自身だ。無論、それを撤回するつもりはない。ないが、それでも曲がりなりにも自分は父親であり、真にトゥハのことを思いやっているつもりだ。故に、今こうして幼い彼女に無理を強いてしまっている。

トゥハ自身は、まったく苦にも思っていないのかもしれない。実質そうだろう、しかしやはりトゥハには、まだ笑って遊んでるだけの子供で居て欲しい。跡継ぎがなんだのと、そのような話をあまり持ち込みたくもない――というのが本音だった。

「でもでも、やっぱりあたし、はやくお父さんみたいになりたい……そうすれば、あたしもみんなを守れるようになれるから……」
「……あのよう」

それでもぽつぽつと言葉を零すトゥハに、父親は痺れを切らしたようにその場で立ち止まると、眉をしかめながら彼女に向き直った。

「トゥハ。別に慌てることはねぇよ。お前はただ緩やかに健やかに、そして強く逞しくなびやかに、元気に笑って育ってくれればオレぁ満足なんだからな。急いで大人なんかになろうとするな。お前はお前なりに、回り道をしてでもいいからこれから頑張っていけ。そしてまだ子供の内は、ただ元気いっぱいに笑っていればいいんだ。わかったか?」
「……まわりみちをしてでも?」
「そうだ。餓鬼の分際で深く考えんてじゃねぇよ。まずはオレ様の背中を見ておきな、自立は大事だがまだお前にははえーよ」

そう言って再びがしがしとトゥハの頭を揺り動かす。にゃーにゃーと鳴きながらも、トゥハはどこか嬉しそうに、暖かな父親の愛情を直感的に感じ取ったのかそのまま彼の腰に勢いよく抱き着いた。

「やれやれ。わかったらさっさと帰るぞ。おら、離れろ」
「うん! お父さんだいすきー!」

今度こそトゥハの笑顔からは悩みの影は消えていた。仕方のねぇやつだな、父親は僅かに笑みながら腰に強く抱き着いたトゥハを突き放そうとする。その時――鋭敏に発達した彼の感覚器官が、ある異変を捉えた。

それは些細な振動だった。雪原を揺れ動かせる微小な、本当に微小な振動。しかし徐々に揺れ幅は大きくなり、今やトゥハにすら容易に感じ取れる域に達していた。

「お、お父さん――?」
「トゥハ。少し離れろ」

そうして、白き雪原を突き破るようにソレが現れた。人間大の大きさで、姿形は正しく人型。しかしその容貌はヒトとは大きく異なっていた。頸部に該当する箇所は見当たらず、頭部と肩部は結合している。加えて体表面は大地と同じく毛一本も生えてはいない一面の真白色。頭部の中央に赫々と輝く一つ目は毒々しい深紅を揺らめかせていた。その逞しき肉体は、トゥハの父親以上の筋骨隆々さを誇っている。

この近辺に暮らす人々がサスカッチと呼称する魄喰鬼だ。人の頭を片手で握り潰すほどの膂力を持ち、常人には極めて危険な怪物だったが、この周辺に暮らす種族。延いては彼らを束ねる族長である己の敵ではない。何故か? 至極当然、彼には“これ”があるからだ。

「――――ッシ」

会敵と同時に踏み出す右足。深く踏み込まれた大地が弾け、次の瞬間父親の姿が消失した。トゥハが瞬きをした瞬間には、既に彼は現れたサスカッチの懐にまで接近しており、右拳を握りしめながら深く深く腰を落としていた。――あれこそ、彼の必殺の構えだ。

「ハッ――!」

ぼっ――。突き出す正拳は、通常の突きにしてはあまりにも異質な音を響かせながらサスカッチの腹部に叩き込まれる。“現奏”により超強化の施された彼の拳は、果たして怪物の胴体に大きな虚空を出現させていた。

「お父さん! 危ない!」

手早く一体を片付けながら、瞬時に感覚に従った裏拳を背後に放つ。目視するよりも叩き込んだ手甲が感触を覚え、父親が振り向いた時には現れたもう一体のサスカッチの頭部は破裂し、墨のような黒い血液を噴出させていた。

「チッ、多いな」

このように、一頭一頭ならば彼の敵ではない。しかし、続々と大地を突き破り現れるサスカッチの数が異常だった。二体、三体、四体、五体。次々と頭数を増やしていく。恐らくそれでも彼ならば難なく退けられる程度だったが、彼の懸念は別にある。こちらには、トゥハがいるのだ。直接的な戦闘に関してはまだあまりにも彼女は未熟だ。彼女を守ることを優先させた立ち回りを演じなければならないだろう。

「トゥハッ! うまく逃げてろ!」

最もトゥハに近い標的に向けて疾駆、跳びかかりながらの蹴撃一閃。血風を撒き散らせながら吹き飛ぶサスカッチから目を離し、次にトゥハへ接近しつつある一体に向けて突進、これも突きの一撃で瞬殺。次――。

舞うように流麗に、獣のように無骨に彼は雪原を縦横無尽に荒れ狂う。一体、二体と確実にサスカッチを仕留めていくが、それでも出現し続ける魄喰鬼の数は止まるところを知らなかった。

何体目かの巨体を打ち倒した直後、己を無視してトゥハの元へ接近するサスカッチの姿を視認する。――標的を変えた。当然だ、より弱い獲物を狙うことはあまりにも自然、理に適っている。

「くそッ――」

追いすがり、一体の頭部を掴み膝に叩きつける。即死、次――背後からの手刀で胴体を切断。即死――次、次、次。まずい、焦燥が父親の胸中

滲む。圧倒的に、手が足りない。

「――トゥハ!」

打ち漏らした数体が、トゥハへ嵐のように襲い掛かる。まるで象に潰される蟻のようだ。それほどまでに対格差は絶対で、今のトゥハでは成す術もなく蹂躙されてしまうことだろう。

父親の発動する現奏が極限域にまで高まり、娘を救うための唯奏を遣おうとした。刹那――。

まず、最初の一撃目では何が起こったのか父親には理解が出来なかった。空高く打ち上がるサスカッチの巨体。見れば胸部が深く陥没しており、地面に墜落するとそのまま動かなくなった。次いで、鈍い残響を届かせて再び巨体が吹き飛んだ。

「んやーッ!」

非現実的な光景であった。幼き少女の細腕が、羚羊の如き両足が、俊敏に、かつ旋風のように踊り舞いながら、的確にサスカッチの急所へ衝突し、その巨体を打ち砕いていく。己の助けなど借りる必要もない。トゥハは、見惚れるほどの鮮やかさで襲来したサスカッチの群れをあしらっていた。

「トゥハ――お前」

思わず呆けていた父親へ、横殴りにサスカッチの剛腕が飛来する。彼はそれを呆然とした表情のまま容易く片腕で受け止めると、そのまま握り潰した。それから、それからさも楽しそうに、喜ばしげに顔を綻ばせると――咆哮と共に戦いを再開した。

それからはまるで児戯の如く。二人の旋風はサスカッチの群れを巻き込み破壊し、最後の一体に至るまで手傷一つ負うことなく撃滅することに成功した。

事が終わり、さすがに肩で息をする己とは裏腹に、トゥハはまるで堪えていないないように小走りで父親の元へ駆け寄った。

「お父さん。だいじょうぶ!?」
「馬鹿野郎、それはオレのセリフだ。やってくれやがったなこのクソガキ」

言いつつ、過去最大の強さでトゥハの頭を撫でくり回し、それから力強く抱き上げた。

「うにゃにゃ!」
「ったく。心配して損したぜ。やっぱりお前は、オレの娘だ。ああ、何にも心配いらねえよ。お前はきっと、立派に育つ。あれだけ“識”を使えてりゃ大丈夫だ。将来が楽しみってもんよ。凄いことだぜなぁトゥハ」
「ほんと? あたし、ほんとに凄かった?」
「ああ、自信を持ちな。褒めてやる」
「えへ、えへへ。わあああい! やったやった!」

じたばたとはしゃぐトゥハを満足げに抱えながら、父親も満面の笑みを作る。

大丈夫だ。この子なら、きっと立派に育つ。自分はそれを見守ろう。

彼女が自分の手元を離れるまで、彼女が立派に育つまで。

未来は明るく――彼の心は、とても晴れやかだった。

 


■■■

 


トゥハの脳裏に過っていたのは、そうした在りし日の父との記憶だった。

日の落ちた暗黒の雪原に、膨大な数の人々が集い、それぞれ松明を頼りに整列し、思い思いの感情を込めた顔でトゥハを見守っていた。

ここは、トゥハたちが暮らす集落より離れた雪山の深奥に存在する部族間の共同墓地だ。今、トゥハはそこで大地に還ろうとしている父親の亡骸の前に立っていた。

代々の部族長が納められてきたものと同じ、墓地の中でも特別飾り立てられた大きな祭壇。その上に、トゥハの父親は横たわっていた。

かつてと見紛う、痩せた体。青白い肌――そして、胸元に刻み込まれた禍々しき呪印。

枯魄病、というらしい。この地域より離れた人里で蔓延しつつある新種の病だと聞いている。彼女たちの部族内では今まで発症者は見られなかったが、近年になり僅かに広まり出してしまっていた。そして彼女の父親もまた、不幸にも発症してしまったのだった。

発症者は、苦痛と共に時間が経つごとに人間性を喪失していき、やがて最後には魂喰鬼へと変貌してしまうのだという。トゥハの父親は、発症が判明した後、潔く早い段階での尊厳死を選択した。

 

多くの同胞たちと、トゥハが見守る中。祭壇に火が点けられ、瞬くうちに父親の肉体を飲み込んでいく。舞い散る僅かな雪と、めらめらと燃え上がる焔の粉。

先ほどの思い出の中でも、その後ことあるごとに父親が言っていた言葉を、トゥハは思い返していた。

――笑え、笑うんだよトゥハ。餓鬼は餓鬼らしく、笑って過ごせ。お前みたいな元気な餓鬼は、笑ってる顔が一番似合うんだ。だから、その顔を忘れるんじゃねぇぞ。

「――うん。わかってるよお父さん」

死の直前まで、父親とはたくさん話した。たくさんの時間を過ごせた。それでも当然、ひどく悲しい。たまらなく悲しいけれど、けれどもトゥハは――笑っていた。

訝しむ周囲の目など気にもせず、トゥハは努めて明るく父を見送ろうと考えていた。そう、彼女は遠からず族長として部族を率いていく立場に立たねばならなくなる。故に、常に明るく、誰もが不安にならないように笑っていよう。彼女は、そう思い至ったのだ。

「ちゃんと頑張るから。お父さんの分まで、頑張るから」

――だから、見守っててね。

葬儀に参列した皆々が、死者を悼む歌声を奏でている。物悲しく、されど荘厳に。偉大なる男の死を惜しむ合唱が、暗き天へと響いていた。

――――それはこの世界、オフィー・レイニアを包む死病、枯魄病。この病の謎を解明、根絶するため、最果てのシェオルと呼ばれる極地へ臨むべく。あらゆる国々が結託し編成したシェオル遠征隊にトゥハ・リ・イスカが招集される。ほんの直前の、僅かな断章に過ぎなかった。

                                           了


地平線の先に至るまで、白き無地たる一面には染み一つ見当たることはなく、息を呑むような銀色の世界が広がっている。

天気は快晴。雲一つない碧天にはぼやけた太陽が曖昧に浮かび、真白の大地へなよやかに日光を浴びせ続けていた。

なだらかな起伏のある雪原にふと、二つの異物がぽつりと点在していることがわかった。一つは小さく、一つは大きい。どうにも人のようであったが、どちらともに何かの毛皮を深く着込み、ぴくりとも動かずその場へ俯せに倒れこんでいた。

死んでいるように見えたがしかし、二人の眼には確かに鋭い光が瞬いており、鷹を思わせる尖鋭的な視線を遥か前方に向けている。

「トゥハ。見えるか」
「うん。見えるよ、お父さん」

小さい方の影――トゥハと呼ばれた少女は、自らの父親が指差した先を見据えながら頷いた。

しかし、父親の指し示した先には何も居ないし、何も見えない。だがトゥハには、確かに見えていた。およそ黒い点々のようにしか見えないそれは、一本の堂々たる螺旋状の角を持った馴鹿と呼ばれる動物の群れだ。

馴鹿の一団と二人の合間には極めて遠い距離があったが、トゥハには――もちろん彼女の父親にも、鹿の姿は筋肉の動きや僅かな仕草まで余さず鮮明に視えていた。

「いいな、仕留めるのは一頭でいい。まずはオレがお手本を見せてやる」

言いながら父親は身を起こすと、纏う毛皮の上に背負っていた何かの道具のような物体を携え、手早く折り曲げる様にして展開を始めた。

それは長大な弓であった。彼の背丈はゆうに六尺以上はあるだろう偉丈夫な様を誇っていたが、大弓はそれよりも更に大きい。およそ武器として機能するのかどうかすら怪しいほどの威容であったが、彼は慣れたように弦に当たる紐を取り出し軽々と張り詰めさせる。

「お父さん。これ」
「おう、ありがとよ」

トゥハが背負った筒状の物体から取り出したのも、また彼女の背丈ほどもある巨大な矢であった。仁王立ちになった彼女の父親はそれを受け取ると弦に引っ掛け、逞しい腕部を用いぎりぎりと引き絞る。

視線は変わらず遥か彼方に存在する馴鹿の一団に向けられていた。ほとんど無風であるとはいえ、距離が距離だ。通常の成人男性が射ろうものなら、半分も届くかわからない。

「頭だ。頭の、ちょうどこめかみの部分を狙え。弦を最大まで引き絞ったら、後は角度を上げろ。それも左手の付け根が自分の両目と真っすぐになるくらいまででいい。そしたら、あとは右手を離しちまえばいい。お前が正しく“識”を使ってるなら、それで上手くいくはずだ」
「うん。わかったよ!」

父親の姿を見つめる幼い少女の眼差しは真剣そのものだ。その言葉の全てを確実に聞き取り、その一挙一動の全てを見違えぬように見つめていた。

己が娘に言い伝えた通りの動きを繰り返し、父親の動きが止まる。矢を引き絞った右腕は小刻みに震え、爆発の瞬間を今か今かと待ち兼ねている。

――そして、弾けた。彼が右手を離した瞬間、激しい鞭打ち音にも似たおよそ尋常ではない風切り音と共に、超低空を射られた一矢が空を貫きながら飛んでいく姿がトゥハにも見えた。

そして瞬きをした次の瞬間、矢は馴鹿の群れへと飛来し、その内の一頭の頭部に目掛けて的確に命中していた。命中と同時に馴鹿の頭は胴体だけを残して砲弾を喰らったかのように消し飛び、命中した矢と共に大地へ深々と突き立てられていた。

「わあ、お父さんすごい!」
「馬鹿野郎、こんなもんは集落の若い連中なら誰だって出来らぁ。ほれ、もう掴めただろう。次はお前だ。しかしお前じゃ普通には構えられんだろうから、弓を寝かせて狙え」
「うん!」

父親から渡された大弓を、トゥハは軽々と受け取る。それだけでも異様な光景であったが、トゥハは矢を取り出しつつ言われた通りに大弓を水平に構えて見せた。一連の動作からはまるで弓と矢の重みを感じられず、ともすればあの弓はハリボテかと疑ってしまうような非現実感を覚えさせる。

「“視力”と“筋力”だ。どちらか一つに識を割くんじゃない。両方ともに安定させておかないと、今のお前じゃ成功しねぇだろう。そして、今度の標的は止まったまんまじゃねえぞ。身勝手に動き回る的だってことを忘れんな」
「うん――わかってる」

口酸っぱく言葉を重ねる父親だったが、トゥハの様子を見た途端に口を噤み硬い表情で彼女の動向を見守り始めた。

矢を引き絞る彼女の腕は、纏う毛皮を加工した衣服の上からでも分かるほどにか細い。恐らく極めて鍛えられてはいるのだろうが、それでも年相応の華奢さは隠しようもない。しかしどうだろう。構えた大弓は張力の影響で微かに震える以外は驚くほど身じろぎもせず、トゥハの瞳もまた僅かにも揺れ動くことはなく地平線の彼方に存在する獲物を見定めていた。

トゥハには視えている。父が命中させた一矢のおかげで、馴鹿たちは錯乱したように素早く大地を駆け回っていた。動き回る獲物を仕留めた経験はあったが、これほどの距離で試したことはさすがにないため成功するかどうかはわからない。

深く穏やかに呼吸を繰り返し、トゥハは走り回る馴鹿の一頭に狙いを絞る。動きは変則的かつ急激だ。移動する先を見越した射的を行おうとしても、当たるかどうかは甘く見ても五分と五分だ。

視界が狭まり、世界から音が遠のく。馴鹿の動きがゆっくりと停滞を始める。脈打つ血脈の動きから、鹿の踏み抜く大地から巻き上がる雪の細かな散らばり、全てが静かに、そして緩やかに進んでいく。今、トゥハの集中は極みに達していた。そこに幼さなど関係ない。彼女が父親と共に、日頃から狩りに出ていた経験は確かな蓄積としてトゥハに残り、そして彼女の生まれ育ったこの過酷かつ雄大な自然は幼き少女の感覚を極限まで研ぎ澄まさせていた。疑いもなく、彼女――トゥハ・リ・イスカは一人前の狩人と言えた。

だが、彼女の父親がトゥハに望んでいるのはそれだけではない。トゥハには更に更に、より強く育ってくれなければならなかった。彼らが身を置く部族を束ねし族長たる己の座を継ぐ者は、己の一人娘たるトゥハ以外にないのだから。彼は厳しくも、堅実にトゥハを育てようと考えていた。

「――――ふ」

トゥハが止めていた息を吐き出すと同時に、矢を掴む手を開いた。父親の時と同じく、凄まじい風切り音と共に砲弾の如き速度で矢が遥か低空に向けて撃ち出された。

果たして――放たれた一矢はしかし、トゥハの狙った標的の頭部を僅かに掠り、何ら射止めることなく白き大地へ突き刺さった。その影響で、今度こそ馴鹿の群れは慌ててその場から遠ざかり始める。さしものトゥハの目を以てしても、もはや捉えられない。仕留める機会は永遠に失われてしまった。

「あっ――」

顛末を見届けたトゥハの口から声が漏れる。すぐさま、彼女は父親の顔を見上げて不安とも見える表情を浮かべる。

父親はしばし、遥か彼方を能面のような顔で見据えていたが、やがて力を抜くように息を吐くと、満面の笑みを作りながらトゥハへ顔を向けた。

「なんだ、やるじゃねぇかトゥハ。大したモンだ」
「え、でも――お父さん。あたし、外しちゃった」

てっきり叱られると思っていたトゥハは、父の意外な反応へ困惑するようにおずおずと言葉を返す。

「そんなもんは別に関係ねぇよ。“掠らせ”たろ、それで十分だ。よくやった。当てられたら確かに凄いがよ、それは凄いだけで別に当たり前のことじゃねぇ。だから、お前はよくやったんだよ、トゥハ。だがまぁ、次は当てられるように頑張れよ?」
 

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